2025年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
少し前にスマホが見せてくれた懐かしい画像。
2022年って書いてるけど、この氷雨は2019年ですね。
前髪の三角がない氷雨ちゃんもかわい~い
2022年って書いてるけど、この氷雨は2019年ですね。
前髪の三角がない氷雨ちゃんもかわい~い
2025年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#夜明けのリボン
没ネームです。
本編内の終盤「ハッピーエンドだね」のページの後の展開は最後まで悩んでました。
これが最初期。
ななが歌い始めて、それに氷雨が乗っかって、二人の歌をバックに劇中のエンディングに移っていくパターンです。
他のページを追加したあとだと少し物足りなく感じて没に。
でこちゅーパターン
未来の関係を匂わせるようなエンディングですが、氷雨の台詞の通り飛躍しすぎで唐突だと感じて没に。

3パターン目
あまりにも本編と関係がなさすぎて没にしました。
ちなみに氷雨のおでこをなながの前髪で温める案はもう数年前からあって、今回の本では「絶対描く!」と個人的な山場になってました。途中で二人がバラバラになるページを描いてるときとか、「いやこのあとおでこあっためるからね~」と励みにしてた。
最終的に、未来の関係を匂わせつつ、本編と関係がある絵にしようと冒頭のやり取りを汲む形で決まりました。
原稿やりながらネームの修正をするので作業終盤でもこういうことになりがちです。
たたむ
没ネームです。
本編内の終盤「ハッピーエンドだね」のページの後の展開は最後まで悩んでました。
これが最初期。
ななが歌い始めて、それに氷雨が乗っかって、二人の歌をバックに劇中のエンディングに移っていくパターンです。
他のページを追加したあとだと少し物足りなく感じて没に。
でこちゅーパターン
未来の関係を匂わせるようなエンディングですが、氷雨の台詞の通り飛躍しすぎで唐突だと感じて没に。

3パターン目
あまりにも本編と関係がなさすぎて没にしました。
ちなみに氷雨のおでこをなながの前髪で温める案はもう数年前からあって、今回の本では「絶対描く!」と個人的な山場になってました。途中で二人がバラバラになるページを描いてるときとか、「いやこのあとおでこあっためるからね~」と励みにしてた。
最終的に、未来の関係を匂わせつつ、本編と関係がある絵にしようと冒頭のやり取りを汲む形で決まりました。
原稿やりながらネームの修正をするので作業終盤でもこういうことになりがちです。
たたむ
#夜明けのリボン
気づいたら1月が半分終わってました。
新刊の感想もWAVEBOXでいただいたりして嬉しいです。今回はスタリラなどの前提がないのが入りやすかったのかな。むしろオリジナル演目は読みにくいと思ってたのでよかったです。
演目は何であっても描きたいのはひさななのことなんですが、今回は「氷雨が書いた脚本」という設定のため深く描けなかった(かといって取り除くこともできなかった)部分があります。
それが「森は見ている、森の出来事はすべて」の意味です。
かんたんに言えば「森」は舞台で「木々」はキリン=観客、という裏設定がありました。
ところどころ、木の幹がキリンの模様になってます。

当時の氷雨はまだ演者じゃないから森に入れない。そして森の中の出来事はすべて観客に見られている。という設定が、そもそも最初にあったのでした。
劇場版を観て以来「彼女たちは人生を燃料に演じ、観客はそれを見せられている」という感覚がどうしても抜けなくなってしまいました。スタリラでもそういう意味合いのストーリーがあったと思います。何もかもを観客に消費されるのが舞台少女だ、というメッセージは分かるのですが、そうじゃない部分を作りたかった。特にななは「観客に見られている」ことを誰よりも意識しているので、誰の目も届かない場所に連れていきたいと常々思っています。
ジクフリ本の『目覚めの温度』でも、誰にも見えないところで二人きりにしたかったと書きましたが、同じです。観客に消費されない場所へたどり着くほうが氷雨とななには合ってるかな~と思います。あと私たちの知らないところで私たちが知り得ないひめごとをしているというのが私の癖みたいです…。誰も見てないから急にひさななしだしても〇なのです。
たたむ
気づいたら1月が半分終わってました。
新刊の感想もWAVEBOXでいただいたりして嬉しいです。今回はスタリラなどの前提がないのが入りやすかったのかな。むしろオリジナル演目は読みにくいと思ってたのでよかったです。
演目は何であっても描きたいのはひさななのことなんですが、今回は「氷雨が書いた脚本」という設定のため深く描けなかった(かといって取り除くこともできなかった)部分があります。
それが「森は見ている、森の出来事はすべて」の意味です。
かんたんに言えば「森」は舞台で「木々」はキリン=観客、という裏設定がありました。
ところどころ、木の幹がキリンの模様になってます。

当時の氷雨はまだ演者じゃないから森に入れない。そして森の中の出来事はすべて観客に見られている。という設定が、そもそも最初にあったのでした。
劇場版を観て以来「彼女たちは人生を燃料に演じ、観客はそれを見せられている」という感覚がどうしても抜けなくなってしまいました。スタリラでもそういう意味合いのストーリーがあったと思います。何もかもを観客に消費されるのが舞台少女だ、というメッセージは分かるのですが、そうじゃない部分を作りたかった。特にななは「観客に見られている」ことを誰よりも意識しているので、誰の目も届かない場所に連れていきたいと常々思っています。
ジクフリ本の『目覚めの温度』でも、誰にも見えないところで二人きりにしたかったと書きましたが、同じです。観客に消費されない場所へたどり着くほうが氷雨とななには合ってるかな~と思います。あと私たちの知らないところで私たちが知り得ないひめごとをしているというのが私の癖みたいです…。誰も見てないから急にひさななしだしても〇なのです。
たたむ

なんかやっぱりお互い傷を負って別々の場所で成長しているというのが最高にいいんだよなあ。一度は繋ぐことを諦めた手を繋ぎ直すえもさはひさななでしか味わえない