昨夜の三浦さんのポスト見て心にぽっかり穴が空いたままです観劇後、別に「もうこれで終わりなんだ」とか寂しい感情にはならなかったんですよね。作品を見た感動のほうが勝ってるから。でも作り手さんがプロジェクトから離れるというのは、もうなあ三浦さんはスタァライトのレヴューを作り上げた人だと思っています。アニメ見て分からなかったレヴューの設定を♯1で分かりやすく再現して、その設定に則ったまま今の状態まで進化させていった。アニメシリーズや中等部の江嵜脚本のレヴューとは全然別種です。江嵜脚本は、中等部感想でも書いたけど「決着をつけるためのレヴュー」なんですよね。扱い方がアニメ寄りで、更にパフォーマンスではなく会話劇で物語を展開させていて、人間ドラマやキャラクターの感情が分かりやすいのが魅力的です。三浦さんは、決着をつけるためではなく、「観客に見せるレヴュー」という側面が強い。役者が観客を魅了してスポットライトを浴びるという段階がどのレヴューにも必ずある。みんながただ互いに戦っているのではなく「舞台に挑んでる」感じがものすごく熱い。アニメや江嵜脚本って「共演者より上をいく」感じなのに対し三浦脚本は「どうすれば観客を魅了できるか」という部分のアプローチが強いと思うんですよね。どちらにも良い面はあるけど、私はもうはっきりと三浦さんが描くレヴューこそが舞台少女的だと思ってる。全員が主役を目指してこそ…というのも分かるけど、名脇役や名助演だってあるしなあ…って。敗者がいるから勝者がいて、勝者のために敗者を演じることだってある。Delightあたりから「主役に固執せず役割を演じる」感じになってきて、自由を感じたなあ。レヴューが醍醐味のスタァライトで、三浦さんがスタァライトから降りる(かもしれない)というのは、もう新しいレヴューは見られないというわけだから、やっぱり寂しい江嵜脚本のほうが評判いいのかなあ。キャラクターコンテンツらしさは江嵜さんのほうが強いからなあ。でも三浦さんも今回かわいそうな子一人も出してなくて、だいぶキャラクターコンテンツらしくなってて、かつ役者に委ねるところは委ねていて、いい塩梅だったと思う。 2024.9.11(Wed) 08:04:48 つぶやき
観劇後、別に「もうこれで終わりなんだ」とか寂しい感情にはならなかったんですよね。作品を見た感動のほうが勝ってるから。
でも作り手さんがプロジェクトから離れるというのは、もうなあ
三浦さんはスタァライトのレヴューを作り上げた人だと思っています。アニメ見て分からなかったレヴューの設定を♯1で分かりやすく再現して、その設定に則ったまま今の状態まで進化させていった。アニメシリーズや中等部の江嵜脚本のレヴューとは全然別種です。
江嵜脚本は、中等部感想でも書いたけど「決着をつけるためのレヴュー」なんですよね。扱い方がアニメ寄りで、更にパフォーマンスではなく会話劇で物語を展開させていて、人間ドラマやキャラクターの感情が分かりやすいのが魅力的です。
三浦さんは、決着をつけるためではなく、「観客に見せるレヴュー」という側面が強い。役者が観客を魅了してスポットライトを浴びるという段階がどのレヴューにも必ずある。みんながただ互いに戦っているのではなく「舞台に挑んでる」感じがものすごく熱い。アニメや江嵜脚本って「共演者より上をいく」感じなのに対し三浦脚本は「どうすれば観客を魅了できるか」という部分のアプローチが強いと思うんですよね。
どちらにも良い面はあるけど、私はもうはっきりと三浦さんが描くレヴューこそが舞台少女的だと思ってる。全員が主役を目指してこそ…というのも分かるけど、名脇役や名助演だってあるしなあ…って。敗者がいるから勝者がいて、勝者のために敗者を演じることだってある。Delightあたりから「主役に固執せず役割を演じる」感じになってきて、自由を感じたなあ。
レヴューが醍醐味のスタァライトで、三浦さんがスタァライトから降りる(かもしれない)というのは、もう新しいレヴューは見られないというわけだから、やっぱり寂しい
江嵜脚本のほうが評判いいのかなあ。キャラクターコンテンツらしさは江嵜さんのほうが強いからなあ。でも三浦さんも今回かわいそうな子一人も出してなくて、だいぶキャラクターコンテンツらしくなってて、かつ役者に委ねるところは委ねていて、いい塩梅だったと思う。